☆沖縄県那覇市「ガーナー森(がーなーむい)」
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那覇市の那覇大橋のそばにちょうど饅頭をポンと置いたような小さな森があります。
「ガーナー森(がーなーむい)」という名の森なのですが、この森はもともと内海に浮かぶ小さな島で、しかも動きまわる化け物だったというから驚きです。
「ガーナー森」は真玉橋(まだんばし)を通る人を食べたり、上陸して畑を荒らしたりしていたそうです。
そこで困った人たちが神様に祈祷したところ、神様は長く突き出た尻尾(実際に島にはしっぽがあったそうです)のところに、大きな石を3つ落として動けなくしたそうです。
今はまわりも埋め立てられ、陸地の小高い丘となったわけです。森の入り口から入ると傾斜のきつい階段状の山道があり、そこを登ると1分程で頂上に着きます。
頂上には「ガーナー森御獄神(うたき)」と書かれた石碑が建てられ、聖地となっています。
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☆京都府京都市「あわわの辻」
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かつて平安京の時代、二条通りと大宮通りの交差点であり、大内裏(だいだいり / 内裏、八正院などの諸宮殿、諸官省がある一郭)の南東角のこのあたりのことを、「あわわの辻」と言っていたそうです。
京都は魔物語の宝庫であり、その由来の地もたくさんあるのですが、その中でもここは「百鬼夜行」の大行列が頻繁に現れていたということで、「パレード好き?」な私にはちょっと興味がありました。
「今昔物語」の中には、百鬼夜行と出くわした賀茂忠行の一行が、いち早くそれを察知した(その当時まだ幼いこどもだった)安倍晴明によって事なきを得た、という話があります。
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☆広島県尾道市「天邪鬼(あまのじゃく)」
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尾道市の国道から西國寺に入る路の一番手前に浄泉寺があります。
その本堂にある雨水を受ける用水槽の下に(というより台座になって石の用水槽を担がされている、あんまりなポーズの)「天邪鬼(あまのじゃく)」が4体います。
文政7年(1824年)に尾道の石工新八によって作られたものと記録されています。
そこから少し登ったところにある金剛院には、とても大きな烏天狗の面と、石で作られた三体の重軽(おもかる)天狗のあたまがあります。願い事をして、軽く持ち上がると叶うと伝えられています。
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☆山梨県南都留郡忍野村「天狗社」
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山中湖インターを降りてしばらく行くと、道の両側にところどころ木々の立ち並ぶ林が現れます。
別荘地の多いこのあたりではよく見かける風景ではあるのでしょうが、車を走らせているとその木々たちが、ザワザワッと揺れたのでございます。
なんの予備知識もなくこのような道を走っている時に、ふとなにかあるのでは?と妙に鼻が利くときがあるのですが、まさにこのときがそれでした。
「天狗社」。赤い鳥居を抜けると、大きな石塔にこの文字。
お参りをしてゆこうと思い社まで行くと、そこには真っ赤な天狗の面。
このように現在のポピュラーな天狗像が山岳信仰と関わりを持ったのは江戸時代以降とされています。
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☆山形県南陽市赤湯「白竜湖」
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山形新幹線(奥羽本線)を山形に向かって赤湯駅を過ぎた頃、右側の座席の窓から見ることができる小さな池のようなところが、日本で一番小さな湖といわれている「白竜湖」です。
赤湯駅からは、雰囲気のある温泉街を抜け、国道13号線を少し北上したところにあります。
この「白竜湖」にも昔話のような竜にまつわる伝説があるそうです。
湖から白い竜が現れて山の方へ飛んでゆくと夕立が起こり、赤湯の農家ではこの雨のことを「白竜の恵みの雨」と呼んでいたそうです。
人気のない小さな湖のほとりに、ひっそりと建っていた赤い鳥居が印象的でした。 (写真提供:渡辺かづき)
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☆北海道旭川市「コロポックル」
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昔からよく耳にしているのに、その実体がよくわからなかった「コロポックル」なのですが、旭川に行った時に図書館で調べたところ、「北の人・文化と宗教」(大林大良著)という本の中に「コロポックルの足跡」という項目があり、北海道各地での伝承、証言などをまとめて書いてありました。
その中の資料によると「コロコニ(蕗)ポク(下)ウン(ノ)クル(人)の約言なり」ということで「蕗の下の人」となり、また、一枚の蕗の葉の下に何人かでいたとのことから、かなり小さい人たちであったとも推測できます。明治時代には、その実体、存在をめぐって「コロポックル論争」が起こり、話題となったそうです。写真は、「蕗」の群生地。いたるところにありました。
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☆島根県松江市外中原町「月照寺の大亀」
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小泉八雲の「知られざる日本の面影」の中に記される、夜な夜な松江の街を徘徊し、暴れまわったという大亀伝説です。
松江藩松平家の藩主宗衍が亡くなったので、可愛がっていた亀を偲んで亀の石像を作ったのですが、この亀は夜になると大きくなり城下へ出て人を襲うようになったそうです。
困った住職がこの亀に説法をすると、当の本人(亀)の方もどうにかしてほしいと泣く泣く訴え、「それでは」と住職は亡くなった藩主の功績を石碑に刻んで背負わせたところ、大亀はおとなしくなったという。
現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできるとさえ言われています。
松江の月照寺を訪れたのは、2000年の元旦、鳥取県境港市水木しげるロードにある「妖怪神社」の杮落としで演奏するために行った時のことです。
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☆群馬県館林市堀工町 「茂林寺の釜」
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東武伊勢崎線の茂林寺前駅より少し歩くと、駅名のとおり茂林寺があります。
かつてここには守鶴という、160年も住職を仕えた優秀な僧がいました。
彼は、いくら汲んでも湯が尽きないという、何とも不思議な釜を愛用していました。
あるとき守鶴は、昼寝中にうっかり毛むくじゃらの尾を出しっぱなしにしていて、実は化け狸だったことがバレてしまいます。
正体を知られた守鶴は寺を出ることになり、別れの日に幻術によって源平合戦の屋島の戦いなどを人々に見せたそうです。
右端の写真は、まさにその『分福茶釜』。
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☆群馬県高崎市倉賀野 「永泉寺の幽霊石」
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JR高崎線倉賀野駅近く、踏切の傍に永泉寺があります。
東京で桜が散る頃、高崎の桜はまだ満開でした。
永泉寺は倉賀野城主 金井秀景を埋葬した墓があることで知られていますが、ここには奥方を埋葬するときに掘り出された人のような形をした自然石もあり、どこかに移してもまた戻ってくるということことから
「幽霊石」と言われ、祀られています。
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☆栃木県大田原市「玉藻稲荷神社」
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きれいな田園地帯の県道から、少し入ったところに玉藻(たまも)稲荷神社はありました。
玉藻前(たまものまえ)は平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた「九尾の狐」が化けた伝説上の絶世の美女。
しかし、その正体を「九尾の狐」と見破られこの地に逃れた後も、那須野が原の人々を取って食べたりしていました。
しかし、さらに追っ手の三浦介によってこの神社に追いつめられた「九尾の狐」は、蝉に化け桜の木に止まっていたものの、池にそ真の姿が映ってしまい、ここで退治されてしまいます。
右端の写真は「九尾の狐」を映し出した「鏡が池」。境内には狛犬ならぬ「狛狐(九尾ではない)」がいました。
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☆京都府京都市「幽霊子育飴」
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古来より「あの世とこの世の分かれ目」といわれてきた「六道の辻」。六道珍皇寺が建つあたりは、その昔、阿弥陀ヶ峰山麓の鳥辺野(とりべの)と呼ばれた東の葬送地でした。
その一角に「みなとや幽霊子育飴本舗」があります。
慶長四年(1599年)、夜な夜な飴を買いにくる女がおりました。その女の様相を不審に思った店主は、ある日こっそりと後をつけます。
女を鳥辺野の墓地のあたりで見失ったため翌日にそのあたりの墓を掘り返すと、墓の中には埋葬された女の亡骸と共に生まれたばかりの赤ん坊がおりました。
なんと墓の中で生まれた赤子を不憫に思った母親の幽霊が、飴を買いに来ていたということです。
その赤ん坊は、八歳の時に寺に引き取られ、後に僧侶となったそうです。
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☆京都府京都市「鞍馬山」
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牛若丸が天狗に剣術を習ったとされる山で京都の北部にあります。叡山鉄道電鉄の終点である鞍馬で下車。
降りたとたんに、大小数々天狗の面に迎えられます。からす天狗の面もあります。
「五月満月祭(うえさくさい)」は、魔王尊に祈願する祭りですが、この魔王尊は鞍馬の天狗の首領であり、日本でも一、二を争う大天狗なのだとか、「サナートクマラ」の異名を持っており、650年前の金星からやって来たとされ崇拝されている話まであって、たいへんスケールが大きいです。木の根が張りつめた参道が山の気質を感じさせます。
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☆京都府京都市「貴船神社」
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鞍馬山の参道を下りきると突然に、その景色は力強かった鞍馬山のイメージから一変し、優雅な貴船神社の美しい風景へと変わります。
朱塗りの灯籠が並ぶ参道石段は、日暮れには幽玄な雰囲気を醸し出します。
祀られているのは水の神様で「たかおかみのかみ」、「拝殿」の前には「神水」と呼ばれる湧き水があります。
そこからさらに川沿いに登って行くと、ご神木である「相生の杉(樹齢1000年と伝えられている)」があり、神聖な雰囲気の貴船神社の「奥宮」まで誘われます。「桜門」をくぐるとその奥に「本殿」があります。こちらに祀られているのは、やはり水の神様で「くらおかみのかみ」、神社総研から天喜3年(1055年)まではここに本社があったとされています。この「本殿」の下には、大きな竜穴があり、ものを落とすとにわかに曇り空となり、龍穴から激しい風が吹き上がるという伝説があります。
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☆滋賀県東近江市「蒲生の人魚伝説」
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蒲生の寺村には、古くから伝わる人魚伝説がありました。
日本書紀 推古天皇27年(西暦619年)4月に 「夏四月己亥塑 近江国言 蒲生河有物 其形如人」と記載されていたそうですからずいぶんと昔の話です。
村の観音堂には尼僧が住んでおり、その尼僧には小姓ヶ淵に住みながら仕える三兄妹の小姓がいたそうです。
ある年、日照りが続き、田畑が枯れ、村は大干ばつとなってしまいました。
しかし、佐久良川(当時近江国蒲生河)の小姓ヶ淵には水が満杯になっており、不思議に思った村の若者が、夜こっそりと淵に行ってみると、そこには観音堂に仕えていた三兄妹の小姓が、人の様な魚の様な姿となって泳いでいました。
若者はこのことを公言する事はなかったのですが、やがて村人達の間には、小姓ヶ淵に「不思議な物が住んでいる」という噂がたち、その噂を聞きつけた者に捕えられてしまいました。
それはなんと人魚だったのです。
その後、捕えられミイラとなってしまったこの人魚は、人から人へ渡り歩きましたが、ある時川合町の願成寺に戻され納められ、この人魚は立派なお厨子に安置されているという事です。
2000年には、この地で「人魚サミット」が行われ、2004年には、近くの八日市で「第8回 世界妖怪会議」がありました。
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☆山口県下関市「耳なし芳一」
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安徳天皇、平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を舞台とした、小泉八雲の「怪談」にも取り上げられて広く知られるようになった物語りでもあります。
赤間ヶ関阿弥陀寺に芳一という名の盲人の琵琶法師がおり、その素晴らしい演奏の噂を聞いた平家の亡霊が、是非聞きたいと寺に訪ねてきました。
寺に住んでいた芳一は、誘われるがまゝに武士たちの集いに行き、壇之浦の合戦を演奏しましたが、そのあまりにも感動的な演奏に、武士たちやその奥方たちも涙を流し泣いています。
芳一は事の次第もわからず、そのまま毎夜訪れて演奏することになりました。
その外出を不振に思った寺の僧侶たちが跡をつけてみると、真暗闇の中、墓の前に座ってたったひとりで壇ノ浦の合戦を熱演する芳一の姿。
これは一大事と和尚に一部始終を伝えると、和尚は、これは平家の亡霊が取り憑いていると考え、芳一の身体中に般若心経を書き連ね「今宵は声を出さぬこと、じっとして返事をしないこと」と命じました。
その夜のこと、 芳一を迎えに訪れた亡霊は、姿が見つからないので「芳一、芳一」と名を呼びます。しかし、返事も声も聞こえません。おかしいと思った亡霊は、ふと宙に浮く「耳」を発見します。
「芳一はおらぬが、せめてものこれだけなりとも持って帰ろう」と、芳一の耳をもぎ取って立ち去りました。
芳一は激痛にも耐え、声も出さずに和尚の帰りを待ちます。
和尚は今日こそは芳一も無事であったろうと寺に帰ると、微動だにせず耳から血を流している黙って座っている芳一を見て、「全身に経文を書いたが、耳には経文が無かったからだ」と悔やみました。
芳一はその後「耳なし芳一」と呼ばれるようになり、各地からその琵琶と語りを賛称されたということです。
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☆茨城県日立市「日立の小豆洗」
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室町時代(1390年)に佐竹氏の家臣、佐藤右馬之亮が佐竹藩の城を築き(現在の鮎川4丁目)、その鬼門にあたるところに本尊を祀ったのが小豆洗不動尊のはじまりとされています。
小豆洗いの伝説は全国各地ににいろいろなかたちで存在しますが、ここにはとても悲しい話が残されています。日立市の鮎川の下流に豪族の館があり、夫婦と一人の可愛い女の子が住んでいましたが、娘が9歳の時に母親は重い病で他界してしまいました。やがて父親は後妻を迎えますが、その継母はなにかと娘につらく当たり、父親が家を留守にすると、炊事洗濯や薪拾いなどをやらせていました。12月のお不動さんの縁日の前日、娘は継母に赤飯に使うための小豆を洗うよう、ざるいっぱいの小豆を渡されます。娘は崖下の鮎川まで下りて行って、言いつけ通りに川で小豆を洗いました。そしてざるを抱えて坂道を上ろうとしましたが、体中が冷え切ってしまい、気を失って倒れてしまいます。やがて気がついた時には、せっかく洗った小豆が道に散らばっていた。継母のせっかんを恐れた娘は、家には戻らず、そのまま鮎川の深みに身を投げてしまいました。そしてその後、このあたりを通る人には「ショキショキ」と小豆を洗うような音が聞こえるようになったということです。
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☆富山県栃波市「ヒンナ神(人形神)」
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ヒンナとは人形のことを指します。「急に裕福になった家にはヒンナが祀られている」と噂をされ、あまり良い意味ではないかもしれませんが、富をもたらし家を栄えさせてくれるものではあるのですが、その人形の作り方がとてもミステリアスです。3年間で3千人の人に踏まれた墓地の土で作られた人形であったり、3寸くらいの人形を千個作って鍋で煮て一つだけ浮き上がった人形であったりと、少し恐ろしい感じがしますが、実際にもそれに代償が付け加えられ、人形神に逆に取り憑かれ苦痛を伴うことにもなりかねず、決してよい方向だけのものではないことも伝えられています。このことが昭和24年の民間伝承に記載されたところまではわかっていたのですが、写真は、現地を訪ねた際に、砺波図書館の方が佐伯安一先生に問い合わせてくださいまして、後日、写しを送っていただいたものです。
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☆佐賀県佐賀市「松原河童社(まつばらかわそうしゃ)の兵主部(ひょうすべ)」
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佐嘉神社の中に松原河童社があり、そこに1772年頃に楠の木で彫られたという、ハチマキをした「兵主部」の木像が、ガラスケースにおさめられて祀られています。高さは68.3cm、横幅60.0cm、奥行23.4cmです。この木像と、神社の横に流れる松原川に、このような伝説があります。その昔、春日の大神が奈良に遷座する際に、奉行の兵部大輔は河川工事を命じられました。人手が足りなく困った兵部は、たくさんの人形にまじないをかけ、河川工事をさせますが、工事が終了後、これらの用済みになった人形を川に投げ捨ててしまいます。その仕打ちに怒った人形たちは河童に姿を変え、人間のこどもたちを松原川に引きずり込んで復讐を始めます。河童の横暴を抑えようとした城主鍋島直茂が川上にある淀姫神社に願をかけます。犠牲者が999人となった時、河童は捕らえられ、「元の人形に戻してくれるなら、これからはこどもを守る」と約束し、以来この木像となってこどもたちを水難から守ってくれているそうです。主が兵部なので兵主部となったそうですが、また別な説では古代中国の水神の兵主神がこの名の起源だとも考えられています。
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☆岐阜県揖斐川郡「揖斐川の風玉」
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火の怪、鬼火の一種だと思われます。揖斐川郡徳山村で明治30年の大嵐の時に現れたという、お盆くらいのおおきさの明るいもので、嵐の最中に山から出て何回も往復したと書かれたものを頼りに現地を訪れたのですが、行ってみて驚きました。ここは現在、一級河川木曽川水系の揖斐川最上流部に建設された徳山ダムとなっていました。ダム建設を伴い徳山村が水没してしまっために正確な資料はありませんでしたが、「揖斐川の風玉(鬼火)」として岐阜シンポジウムの際に絵と演奏を発表させていただきました。
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☆静岡県浜松市〜愛知県田原市「波小僧」
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遠州七不思議のひとつとして数えられる「波小僧」の物語。実際には七つ以上あるこの物語集には、実に興味深い話がたくさんありますが、この「波小僧」に関しても幾種もの伝説が残されており、御前崎から伊良湖畔までの遠州灘で起こる海鳴り、波が起こす自然現象のことを指していると思われます。昔からこの一帯に住む人々には、海鳴りなどは妖怪の仕業と考られていたようです。
昔、ある漁師が遠州灘で漁をした時に、波小僧(実際にどのような姿であったかは記載されていません)が網に掛かってしまいます。漁師はそれを捕まえて殺そうとしますが、波小僧の「もし命を助けてくれたならば、お礼に雨や嵐が来る時には海の音でお知らせします。」という約束と交換条件に、海に返してやります。それ以来、海小僧は海鳴りを起こして、嵐などの悪天候を事前に知らせてくるようになったということです。また中には、海小僧が農作業を手伝わせるために作られた藁人形のことであるという説もあり、河童との関連性も考えられるところもありました。現在、東端の浜岡砂丘には「波小僧」の像が建てられており、また「日本の音風景100選」には「遠州灘の海鳴 波小僧」として選ばれています。
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